2010年3月4日木曜日

沢村和世さんの意見陳述書(第2回公判)

陳述書


                           沢村和世

 私は下関市の住民で、沢村和世と申します。
 1941年(昭和16年)、5歳のとき両親の事情で下関市に移り住み、以来68年間ずっと、この地におります。
 下関はご存知の通り、周防灘、関門海峡、響灘に面しています。海への思いは一入のものがあります。
 その、響灘に面する豊北町に原発計画が浮上したのが1977年でした。幸いその時は、海を守る漁師さんたちの一致団結した気概でこの計画は葬られましたが、私はこのときから
 原発反対への思いがいっそうつのり、その思いは上関原発を建てさせてはならないという思いへとつながりました。

 下関は瀬戸内海の西の口です。その地の住民として、世界でもたぐい稀なほど、美しく恵み豊かなこの瀬戸内海の、西の口にしっかり位置している誇らしさを思います。そしてこの瀬戸内海のまわりで、何らかの恩恵を受けながら生活している3千万人もの人々に思いを繋げます。
 私の目にする関門海峡の潮流、航行する船の姿は、何十年後の人の目にも変わらないでしょう。瀬戸内海の、海も、島々の姿も、大きくは変わらないでしょう。
 しかし、この、目に入る姿は変わらなくても、目に捕まえられないところで、少しずつ、少しずつ、薬害で熱害で海が変質し、生き物が消えたなら、その時代に生きている人たちが、振り返って、「ああ、あの時の・・・」と、瀬戸内海に原発が建てられた時のことを悔やんでも、もう、取り返しがつきません。
 私たちは今、その岐路に立たされています。

 海の生き物が汚染されたり消えたりするということは、人間も生活できない、ということになります。それは、何十年後、何百年後もそうですが、「今」の問題でもあります。原発が建てられようとするその前に、すでに、埋め立てによる海の汚濁、騒音、砂浜を埋めてコンクリートに変えることによる生態系の破壊、その延長にある漁業の破壊は、容易にイメージされることです。
 その埋め立ての後に来るものが、この閉鎖海域を間断なくおそう、化学薬品、放射能を含んだ温水の垂れ流しであるならば、もう、完全に瀬戸内海は死にます。

 ところで、「瀬戸内海環境保全知事・市長会議」というものがあります。瀬戸内海周辺31の府・県・市が加わっており、今年はその39回目の年次総会が京都でありました。もちろん山口県も、下関市もその一員です。
 そうしたところで、「藻場、干潟、砂浜の保存」が書類に留められながら、上関では、せっかくの砂浜をコンクリートに変えようというのです。
 環境政策よりも、開発経済優先政策がいまだにまかり通っているのでしょうか。
 山口県が許可するに際し、田ノ浦の木の伐採は「森林法」に、また埋め立ては「公有水面埋立法」に叶っているからということですが、祝島の漁民がこの海域で漁をして生活を立てることが出来なくなることは、「最高法規・日本国憲法」に照らしてどうなるのかが問われると、私は思います。

 以上で私の陳述を終わります。

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